こひ
あの日
ほそい ねむの木の下で交はした
うすいうすい玻璃のわれるやうな
くちづけに解かされて
わたしののどの奧の奧のはうに
流しこまれた 鈍いいろのそれが
たぶん おそらく "こひ" といふやつが
春の子馬のやうに
いつとなく わたしの中を駈けまはるので
わたしは
あなたを忘れてしまふことが
つひに できずに いるのです
バースデイ
「あなたの泣き顔を見るのは、もう、これで何度目かしら
「泣いてないって?鏡をよく見てごらんなさい
「涙が流れていないだけよ
「だれからも愛されなさいって
「強い人でありなさいって
「賢い人でありなさいって
「迷わずに、止まらずに歩きなさいって
「偉くて、立派な、普通の誰かさんは言うかもしれないけど
「そんなの、たいしたことじゃない
「あなたがただ、
「自分を憎まず
「嘆かず
「殺さず
「“自分と仲良くやっていけますように”
「初めて会った日に、それだけを願った
「それだけでいいのよ
「それが一番、難しくて、大切なことなんだから
「…ああ、もう行くのね
「身体に気をつけて、夜は暖かくしてね
「空が、星が、そよ風が、花の香りが
「いつでもあなたを守りますように
「愛してるわ
「いってらっしゃい
「ああ、それから
誕生日、おめでとう
ノック
雨音、ひとつ
「ごめんください」
びしょぬれの傘の下
泥んこレインコートのお腹に
そうっと抱えたちいさな包み
だいじに
だいじに
雨音、ふたつ
「おとどけものです」
ドアの向こうからこもった声
不機嫌そうね
そりゃあわかるよ
君がどんな顔、してるかなんて
雨音、みっつ
「おとどけさきは、こちらです」
何度も何度も確かめた
だからここにいるんでしょう?
道に迷って、雨に降られて、
その上、転んだりなんかもして、
それで、
それで、
怖くなって
雨音、よっつ
「すてきなおくりものですよ」
さざんかの花
金色の蝶々
銀の指輪
白い羽
世界で一番大切な温もり
贈り主も、
注文者も、
君が一番よく知ってるでしょう?
…本当は、ずっと待ってたのも知ってるよ
雨音、いつつ
「うけとってくれるまで、かえりませんよ」
君が思い出すまで、
君が怖くなくなるまで、
君が顔をあげるまで、
君がしっかり立ち上がるまで、
君が
自分で、ドアを開けるまで。
雨音、やんだ
「やあ、きょうは、いいおてんきですね」
シーソーゲームの先で
100回世界を憎んで、100回世界を愛したわたしが
101回目に"愛してる"と言うそのときは
全知全能の誰かさんと同じ顔をしているのだろうか
「あちらのお客様からです」
生まれたての赤ん坊が
数字の0だとしたら
色も文字もかかれていない、真っ白なキャンバスだとしたら
だれもがそこからスタートなのだとしたら
道ですれ違う冴えない彼は
外国の高級車を乗り回すあの人は
みんなに好かれる人気者は
どうしても気に食わないあいつは
テレビの中で誰かに刺された誰かは
誰かを刺した誰かは
みんな
真っ白だったあなたの
0だったあなたの
あらゆる可能性のひとつ
あなただったかもしれない未来のうちのひとつ
私はあなただったかもしれない
あなたはあの人だったかもしれない
70億通りのあなたが歩くこの世界を
どうか、愛して